法政大学/学生運動/斎藤いくま公式ブログ
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約3年前の2008年5月28日、でっち上げで不当逮捕された法大生、新井君と中島君のいわゆる「5・28法大弾圧裁判」控訴審判決がいよいよ来月2月の28日に行われます。
この裁判は法大弾圧裁判初の無罪判決を勝ち取り、検事の側が控訴して行われている裁判です。
当時の動画
http://www.youtube.com/watch?v=bh3-woP4590&feature=player_embedded
東京高裁は不当にも逆転有罪を狙っています。
「でっち上げ不当判決を許さない!!」の声を東京高裁に向けてガンガンあげていこう!!
是非、傍聴に結集をお願いします!!
5・28法大弾圧裁判控訴審判決
2月28日(月)10:00~
東京高裁にて
※傍聴券配布のため、40分前に結集お願いします
資料:被告人の最終弁論
※力作です(被告人談)
↓↓↓
ダウンロード(txt)
この裁判は法大弾圧裁判初の無罪判決を勝ち取り、検事の側が控訴して行われている裁判です。
当時の動画
http://www.youtube.com/watch?v=bh3-woP4590&feature=player_embedded
東京高裁は不当にも逆転有罪を狙っています。
「でっち上げ不当判決を許さない!!」の声を東京高裁に向けてガンガンあげていこう!!
是非、傍聴に結集をお願いします!!
5・28法大弾圧裁判控訴審判決
2月28日(月)10:00~
東京高裁にて
※傍聴券配布のため、40分前に結集お願いします
資料:被告人の最終弁論
※力作です(被告人談)
↓↓↓
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はじめに
新井くん、中島くんは無罪である。2人は法政大学の教職員や、警備員に対する暴行など全く行っていない。裁判官は、検察官の控訴を棄却するとともに、新井くんに対する有罪部分については原判決を破棄して直ちに全面無罪の判決を出さなければならない。
2人への逮捕・起訴が、法政大学における学生運動、自主活動、言論活動を圧殺するために行われた政治弾圧であることは明白である。そしてその主体は、教育を金儲けの道具に変えようとしている法政大学の理事会連中であり、歴史的危機に立つ資本家階級そのものである。法政大学での闘いは、08年リーマン・ショック以来、激化し、深化・発展する世界大恐慌の侵略戦争・世界戦争への転化が現実化しつつある時代の、戦時下の弾圧との闘いなのである。それは全世界の学生・労働者の注目するところとなり、時代の先端に立つ闘いとなった。
そして今や、その先頭に立っているのは昨年4月に法政大学に入学した1年生である。彼ら・彼女らは「監獄大学」・暴力支配の現実に、処分も恐れず真っ向から立ち向かう決断をした。この一点をもってしても、被告人2名の無実と正義が証明されたに等しい。裁判官は、未来ある若者の怒りの決起という刃をそののど元に突きつけられたことを自覚すべきである。
新井君も中島君も、暴行など一切していない。新井君は、安東への首絞めも、佐藤の引き倒しも、星への殴打もしていない。中島君は、正木への殴打などしていない。このような明白な政治的デッチあげは断じて許されない。法大当局のふるったあまたの暴力には目もくれず、学生へのデッチあげに裁判所が追随することなどあってはならない。
裁判所は、直ちに2人に全面無罪の判決を出さなければならない。
第Ⅰ章 法政大学の新自由主義路線の不正義性・暴力性とその破綻
本件について判断をするにあたっては、本件2007年4月27日及び2008年4月11日の出来事だけを見るのではなく、その前後にわたる被告人ら学生側と法政大学当局との間の様々なやり取りを含めて理解しなければならないことは当然である(弁護人らは、このような事情を暴行罪の構成要件該当性の段階で検討すべきと主張し、原判決は違法性阻却事由の段階で検討するとの立場を採用しているが、いずれにせよ、各種の事情の考慮が必要であるとする点で異なるところはない)。
そこで、まず本件の背景として、06年から行われてきた学生支配、言論弾圧の暴力的実体を述べる。そしてその背景として1990年代以来、法政大学当局が一貫して学生自治を敵視し、その破壊を追求してきたこと、それが06年以来、さらに激しく展開されてきたことを述べる。そしてさらに、この法政大学のあり方が学生を徹底的に商品化し、教育を金儲けの道具にする新自由主義大学化のなかで必然化してきたこと、そしてそれが現在、ボロボロに破産していることを述べる。こうした現実と日々、対峙しているのが2人の被告をはじめとする3万法大生であり、全国300万学生である。この現実に真正面から団結して立ち向かい、実力をもって変革していくことを「人間的行為」「歴史的事業」と呼ぶことはあっても、「犯罪行為」などと呼ぶことなど全く許されないことは明白である。
第1 学生支配の暴力性
1 2006年3月14日以来118人の逮捕・33人の起訴
118人の逮捕者、33人の起訴者、そして乱発される退学や停学の処分-検察も、裁判所もこれまでの法大裁判で一度も触れたことのないこの数字を見据えるべきである。一つの大学における学生運動に対する弾圧としては未曾有の規模である。法大当局自身が、弾圧というかはともかく、法政大学における学生運動をつぶそうとした結果生み出されたのがこの数字だということは認めているのである。
この数字こそ、法大当局の犯罪性そのものであり、学生に対する暴力支配がむき出しになったものである。本件を理解するにあたっては、かかる現実を無視することは許されない。
2 ガードマンや教職員による暴力支配
(1)法大当局の「警備」体制変遷の概要
2006年5月に3・14弾圧で不当逮捕された3人の文学部生に退学処分が下った直後から、興和警備保障という会社の警備員が配備された。そして同年9月からは興和警備に代わり東京警備保障の警備員が配置につく。さらに2008年9月からジャパンプロテクションの警備員が、当初は「嘱託職員」を名乗って「警備」体制に加わる。この「嘱託職員」が実はジャパンプロテクションの警備員であるということが、2008年に行われた法大裁判の中で明らかになるのである。
そしてこのジャパンプロテクションは2008年10月からいなくなり、東京警備保障の警備員と教職員の「体制当番」による「警備」、さらには学生が、その言動から「やくざ部隊」と呼んでいる、所属も名前も名乗らずにビデオカメラによる撮影・監視を行っている自称「職員」がキャンパスを徘徊するという「警備」体制が取られている。(第4回新井)
以下、今少し敷衍して述べていく。
(2)2006年の警備体制
2006年5月から警備員による「警備」体制が取られるが、当初は学生に対して実力行使する事はなかった。教職員の後ろについているぐらいであった。(第4回新井)
それが明確に転換するのが同年9月、東京警備保障が配備されてからである。処分を受け、それに抗議する学生に対する、実力を用いたキャンパスからの排除が連日、行われた。
これら警備員の抗議は明白に警備業法15条「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たっては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」に違反する。警備業法においては警備員に対する研修が義務づけられ、対象者に対する実力行使は行ってはならないと繰り返し教え込まれる建前になっている。東京警備保障警備員による暴力行為は、学生側が暴露し抗議した結果、表だっては行われなくなった。
2005年に法大に入学し2006年以来の法大キャンパスの様子を学生としてつぶさに見ていた恩田くんは次のように証言している。
(東京警備保障の警備員について)「一言で言うと、粗暴でした」(第4回恩田)
「2008年の夏ごろ、僕の後輩に当たる法政の学生の齋藤郁真くんに対して、東京警備保障の正木敦行という警備員が腹部にけりを入れて排除しました」(同)
齋藤くんへの暴行については増井くんも証言している。
「星景警備員と正木敦行という、直接目にすればより一層分かりやすいとは思うんですけれども、彼ら2人の暴力性、齋藤君は正木敦行におなかを蹴られたりしていますけれども」(第5回増井)
「星景という警備副隊長がいるんですけれども、星景を含む何名かが中島さんを抱え上げて学外へ排除するところを見ています」「その引きずり出したのは2006年の後期あたりかな」(第4回恩田)
「星景さん、僕は手をかまれたんですよ」「2009年ですね、集会のときですね」「僕が集会をしていて、突然、彼がかみついてきましたね」(同)
「正木という人は常に暴力を振るうんで、この裁判の一審で証人として出廷した内海佑一さんという方がいるんですけど、彼を証人出廷する日に正木から投げ飛ばされたか何かして、手にけがをしたんですよ」(同)
また、中島くんは、自らが受けた暴行について以下のように克明に証言している。
「東京警備保障は、とにかくそれまでの警備会社が拒否してきた暴力的な排除というのを担う会社でしたから、そのなかでも取り分けこの星警備員というのは体格がいいんですね。私の体験に即して言いますと、例えばこの門前の正門の前の路上で、結構敵意をむき出しにしてきますので。私などは、例えば路上にたたきつけられたことがあります。危ないと言いながら、車が通っているんですけれども、この肩をつかんで突き飛ばして、危ないと言いながら突き飛ばして、そして、もう一回つかんで、そのまま今度は地面にたたきつけると。 当時、私は、それで肘を擦りむいて、当時の写真とか残っていたりするんですけれども、そういう、それは一例ですけれども、そうした暴力的な傾向というのはあったというふうに思っています。」(第5回中島)
新井くんも警備員に暴行を受けた一人である。
「まず今回被害者として出ている正木敦行という警備員ともみ合ったことは、回数は数知れません。そして、その中で、眼鏡が一つ中島くんについても焦点になっていますが、僕自身も眼鏡を払い落とされるということがあった…正木という警備員は人の眼鏡を弱点として狙う、非常に狡猾悪質な人物だという風に僕自身は思っています。」(第4回新井)
以上、時期はいろいろ異なっているが、配備されてから5年間、その暴力性は一貫しているのである。さらにこれらの実力行使は、きわめて組織的におこなわれていたことについて、中島くんは証言している。
「入構禁止者に阻止線を突破されると減点されるんだというふうに聞いたことはあります。それぞれの門の担当者が決まっていて、なんか1回入られたら何点、それがたぶん給料に影響するんだと思うんですけれどもという形で。そういう形ですから、たとえ入ろうが入るまいが、いるということをもってすごく憎しみを向けられるわけですよね。そういうことはありました」(第5回中島)
こうした、にわかには信じられないような暴力支配が実体的には東京警備によって、そしてもちろん、法大当局の指示のもとでおこなわれてきたのである。
また、これら警備員が行ったのは暴力行使だけではなかった。教職員によるものと一体で、「入構チェック」や単位、卒業、就職を使った脅しなど、様々な形での学生への嫌がらせも数多く行われた。
「入構チェックというものがあるんですけど、特定の学生、大学当局とまあ警察ですよね、がこいつだと思ってマークした学生の入構時間と退構時間をチェックするというものがあるんですよ。許し難い人権侵害なんですけど」(第4回恩田)
「東京警備保障の大久保…という警備員がいたんですけれども、…妨害を打ち破って…討論を始めた学生に対して、…このままだと退学処分になるよとか、就職や卒業ができなくなるよというようなことを白昼堂々と脅すようなことをやって、法大生、学生が真実を知っておかしいという声を上げるのを執拗に陰湿な形で妨害」(第4回新井)
こうした「警備」体制が早くも2006年度末には取られており、法政 大学構内を警備員が我が物顔に徘徊して学生らに対する威圧と嫌がらせに従事していたのである。
(3)2007年4月27日のエスカレーション
これがさらに大転換するのが2007年4月27日であった。この日は不当処分の撤回を訴えるキャンパス集会とデモが呼びかけられていたが、2006年9月以来、半年間ほど出てこなかった教職員が大挙して「体制当番」を組みキャンパスに登場した。内海くん、友部くん、内山くんという3人の被処分者を、手足を抱え、体ごと持ち上げてキャンパスから排除するという違法な自力救済へと踏み切った。そして、この実力排除に当然の抗議を行った新井被告人と友部くんを逮捕し、起訴するに至った。これがすなわち本件(旧件)である。
ところでこの日の法大キャンパスの異様な状況について、07年に入学し、この前日に新井くんと初めて会ったという増井くんが以下のように証言している。
「4月27日の朝にキャンパスに入っていった。前日会った新井さんが朝、門の中、キャンパスの中でビラをまいていたのを受け取ってちょっと言葉を交わしたんですけれども。帰るときも、キャンパスに、昼ごろ帰ったんですかね、新井さんと大学職員がちょっと口論になっているというかそういう場面があったんですけれども、新井さんが何をしたのかといえば、ビラをまいて政治的主張をしていただけだと。それによってたかって大学職員が群がるなんていう光景が、表現の自由が憲法の条項で規定されている日本国において正常なのかどうかと、僕は正常じゃないというように思っています」(第5回増井)
(4)2007年から始まる学友会廃止攻防と「警備」体制
そしてこの4月27日の弾圧直後に、後述する学友会廃止攻撃が法大当局から打ち出され、サークル団体を始めとしたすべての法大生との大攻防となる。本件(旧件)4・27弾圧は、法大当局による学生自治破壊のエスカレーションの開始という意味をもっていたのである。
教職員による「体制当番」や東京警備保障による「警備」体制はこの頃(正確には2007年10~11月頃)から約3倍に増強される。毎週1回学内で夕方から行われていた文化連盟の会議に対して警備員たちが張り付くようになった。警備員の数は倍増され、これまでの日勤に加えて、夜勤のシフトが導入された。本件で登場した警備員の正木や富山は、まさにこの時期に警備会社に就職し、法政大学に送り込まれた人物に他ならない。学生の自治活動に対する敵対と妨害のために新たに雇い入れられのである。彼らの任務は、被処分者や「学外者」の入構を阻止するという建前をとったが、実際には、文化連盟の討議そのものにたいする重大な圧力をかけることだった。学生が学友会廃止反対の声をより強く上げていくこと、あるいは政治的に立ち上がっていくことを抑えつける、暴力的な抑圧体制としてより強化された。(第4回新井)
(5)2008年度から導入されたジャパンプロテクション
学友会廃止攻撃はしかし、サークル団体をはじめとする学生の怒りを呼び起こし、07年度を通して攻防が激化していく。市ヶ谷キャンパスにおける学生団体は、強引な学友会廃止決定にも関わらず、自主的に団体存続を決定し、文化連盟では新執行部を選出するに至る。
この学生の怒りに追い詰められた法大当局は新たな警備体制を取るに至る。それがジャパンプロテクションである。ジャパンプロテクションの警備員は2008年4月から配置されたが、当初は「嘱託職員」と名乗っていた。しかしそれはおよそ「職員」とは言い難い、それまでの暴力とはまたさらに一線を画す、むき出しの暴力集団であった。
「やってることだけみたら犯罪者」
「大学に抗議する人間、抗議集会をやったりとか、抗議デモをやったりとか、ビラをまいたりする人間に対して、あからさまな暴力の行為ですよね。殴る、蹴る、寝技をかける…ヘッドロックをかける、羽交い締めにして膝蹴りを食らわせるとか、馬乗りになって首を絞めるとか、そういういわゆる犯罪行為を日常業務にしていました」
「ビデオカメラをもって僕の動きを監視していましたね。で、いろいろと殺すぞとかいってきました」
「ジャージ部隊というガードマンたちが、文化連盟だとかほかの団体の会議体の場に現れて、参加者に対して威圧するんです」
(以上、第4回恩田)
「4月の1日か2日に初めて見て、いや、えらくガタイのいいプロの格闘家みたいな人がいるなと思って。本当に見たことなくて、職員ですかと聞いたんですけれども、職員だ、昨日から、昨日からというので、昨日からって何だろうというふうに思っていたんですけれども、柔道とか、耳なんか柔道なんかやってるような感じ、それが」「首なんかもワイシャツのボタンが締まらないみたいな、そのぐらいの格闘家なんですけれども」
「一番ひどいのは内海君という、いますけれども、彼は、ジャージ部隊と呼ばれる人々に眼鏡をたたき落とされて、馬乗りになって首を絞められて、そして、Tシャツの襟からそでからびりびりに肌が露出するぐらいに破かれて、首にはこの赤い筋が、首を絞められた後が筋として残っているというは実際に目撃しました」(第5回中島)
(6)小括
ここまで述べてきたように、2006年から始まる法大教職員、東京警備保障警備員、ジャパンプロテクション警備員による暴力支配、そしてこれと一体となった警察権力による118人逮捕、33人起訴という大弾圧は、これまでの大学の歴史を画するものである。これに抗議し続けてきた新井くんや中島くんを逮捕し、起訴し、無罪判決には控訴するという暴挙はとうてい許されるものではない。裁判所は、本件で問われているのは「暴行」があったかどうかということなどではなく、「大学とはどうあるべきなのか」、「この5年間の法大のあり方とは何なのか」という問題なのだということを見すえなければならない。
第2 学生自治活動に対して憎しみを募らせてきた法大当局
1990年第の後半から、法大当局の変質と、学生支配の暴力性は顕著にエスカレートした。学生の言論・表現の自由を奪うことに始まり、次第にすべての学生から学生自治や、サークル活動など自主活動の自由と団結を奪い管理下におくことが、その直接の目的であった。
1 90年代前半
法政大学は、「民主法政」「自由と進歩」を校風とし、戦後、一貫して、学生の自主活動が活発に行われてきた。
1990年ころの法大の学生団体の状況は、市ヶ谷キャンパスには法・文・経営・二教の各学部自治会(各学部生全員が加盟)、一文連、二文連、学団連などのサークル団体や応援団や体育会で構成される学友会(法大生全員加盟)、各学部に学術団体、30本部団体(自治会、サークル団体、学術団体、応援団、体育会、寮など)で構成される学生会館学生連盟が存在していた。まさに、大学の自治の担い手として学生の団結が力を発揮していた。
学生運動の状況をみると、1990年には、法大当局の土地売却における不正問題や天皇の即位の礼に反対するバリケードストライキが闘われた。91年度には次年度からの学費値上げに反対して何度もストライキが行われ、最大の教室である511教室での総長団交も行われた。後期試験はバリストで粉砕されていた。
キャンパスには、自治会、全学連、中核派、学生団体、各サークルの立て看板が華を競い、これら各団体の教室でのビラまき、廊下などのノリ貼りステッカーなども加わって、法政大学を訪れた人は誰でも「民主法政」、「自由と進歩」という校風を体感することができた。
学生部に対する学生の抗議行動は当たり前で、個別のテーマごとに、学生部は学生の声を大学当局に届ける窓口、学生部長は学生の声を学部長会議に届ける役割ということを学生部・学生部長も学生の前で何度も確認してきた。学生部は、教室貸し出しなど学生に対する様々な便宜供与を担当していた
このような学内の状況・雰囲気は、基本的には2004年の学生会館の解体まで続いていたし、法政大学当局が暴力的に押さえ込もうとして本件をはじめとした大量弾圧を仕掛けてきた現在にあっても、その状況と雰囲気の奪還を求めて学生のエネルギーが噴出しているところである。
2 90年代後半
上記のような学生諸団体の活動に対して、90年代半ばから、大学当局の規制が強まってきた。
最初の変化は、1994年におきた学生間の対立で学生会館学生連盟の総会が成立しなかったことを口実に、94年度から学生連盟予算が執行されなくなったことであった。法大当局は、その後連盟総会が再開されたあとも、学生会館学生連盟を承認することを拒否し続けた。
1996年に清成総長が就任すると学生自治会に対する非公認化攻撃が決定的に強められた。
2003年ごろまでには、法・文・経営・第二教養部の全自治会は全て非公認化され、自治会費の代理徴収は停止された。
3 2000年台
2000年に入り、3月、「市ヶ谷キャンパスにおける掲示物に関するルール」が発表され、同年度にボアソナードタワーが開館、2001年度からは学費値上げのスライド制が導入された。
この2000年の「掲示物に関するルール」とは、ビラを貼る場所を掲示板に限定し、立て看板は学生部長の許可を得ることが必要とするものであった。「掲示物に関するルール」は掲示板以外に貼ったビラは全部剥がすというものであったし、立て看板を出すのに学生部長の許可が必要であるとし、規制の強化そのものだった。だが、この時点では、立て看板の大きさや設置場所、設置期間などの細かい規定はなかった。このルールに対しては、学生諸団体は反対し、このルール自体を認めず、ビラのノリ貼りを行い、立て看板を出してきた。特に、立て看板の規制については、その後も有名無実化してきたし、法政大学当局も立て看板の掲出について従来どおりの取り扱いとしており、2000年ルールを文面どおり適用しないという学内慣行が成立していた。
また、学生会館は、200部屋の個室や中小会議室、ホールを有するサークル、自治会などの学生の自主活動の拠点であった。この学生会館に対しては、2003年8月13日、小火を口実に法大当局により夜間使用禁止とされた。2004年4月20日、やはり学生会館での小火を口実に、法大当局は学生会館を閉鎖し、7月に学生会館の解体と新施設建設を打ち出した。この小火の原因は漏電であり、夜間使用禁止のために、夜間、学生がいなかったため消防署が来て消し止めた。学生がいれば、学生の手で消し止めたはずであった。しかも、漏電対策としては、ちょうど翌21日にコンセントカバーを配布する予定だったところ、その前日のできごとであり、謀略の可能性すらあった。しかし、このような経過を経て、学生会館は2004年に解体された。学生会館を解体して新施設に置き換えることはあらかじめ決められており、その口実に小火が利用されたことは明白だった。
この前年、その後総長に就任することになる平林千牧施設担当常務理事は、雑誌「法政」のインタビュー記事において、ボアソナードタワーと学生会館を対比してそれぞれ「知性」と「非知性」になぞらえる発言をしている。学生会館は法大当局にとって、悪罵の対象であり、その解体は、「どんな手段を使っても」実現したかったものといえる。
学生会館解体は学生の自主活動に対して大きな影響を与えた。学生会館解体は、サークル活動を始めとした学生の自主活動弾圧の象徴的事態であり、これによりサークル活動が解体されたサークルも多く、学生の団結も解体された。
4 2006年、立て看・ビラ規制
2006年2月27日、「学生団体の立て看板・ビラに関する運用について」が法大当局により発表されるに至った。この規定について法大当局は、2000年「掲示物ルール」の「運用を定めたもの」と言っているが、これはまさに立て看板とビラに関する規制の強化であった。しかも、法大当局は、2月のグールプリーダーズキャンプ(略称「GLC」、学内の学生自主団体のリーダー達の学内問題を話し合うための会議合宿)が終わって学生がキャンパスに最もいない期間にこれを打ち出し、3月14日から運用を開始すると一方的に通告するといった学生無視のやり方を取った。
この規定は、立て看板については、学生部長の許可を必要としたうえに、設置場所は学生部が決め、設置期間は2週間、大きさはベニア1枚、学内学生団体のみ(個人もダメ)といった内容であった。ビラについては、教室での配布や置きビラを禁止し、学内学生団体のみとされていた。2000年「ルール」はあくまで「掲示物に関するルール」であって、ビラまきという行為は規制の対象外と法大当局ですら認めていたが、2006年ルールは「ビラまき」を規制対象とするなど規制対象を新設しており、「2000年ルールの運用」という範囲を完全に逸脱した内容であった。
学生側は、このような言論規制を認めるわけにはいかず、3月2日には学生有志で、8日は哲学研究会として、13日と14日は全国学生と共に学生部に対する抗議行動を行った。法大当局は、これらの抗議行動を「業務妨害」と決めつけ、被告らに対する退学処分の理由とした。しかし、そもそも学生との合意もなく言論規制を一方的に行う法大当局に一切の責任があるのであり、不当な表現規制に対して学生が抗議するのは当然であった。
なお、過去、法大では、全国学生の集会やデモはしばしば行われている。2004年の学生会館解体に際しても、12月4日に全国学生総決起集会を行い、学生部への抗議デモを行っている。それを理由に処分等が行われたことは一切なかった。
5 3.14法大弾圧
(1) 法大当局が上記立て看・ビラ規制の運用を開始するとした3月14日の前日である13日、これに反対する集会と学生部へのデモが行われた。
翌14日も反対集会・デモが行われた。学生達は、キャンパス中央で集会を行い、学生部に抗議に行き、デモに出発した。デモからキャンパスに帰ってくると、正門は開いたままで、キャンパス中央に20~30人の教職員が阻止線を張っていた。学生達は異常事態だとは思ったが、そのまま正門からキャンパスに入った。本件528事件の第1審で新井被告人と併合審理されていた友部くんなどは学生証を法政大学職員に見せて、その承認のもとで正門から法政大学構内に入っている。正門入口で副学生部長の坂本旬が「許可なき者の入構を禁止する」と言っていたが、具体的な阻止行動はなく、キャンパス中央で阻止線を張る教職員と学生が対峙する構造となったが、当然ながら学生側は口頭での抗議など表現の自由の範囲内の正当な行為しか行っていない。
その後、坂本旬が「立て看板の撤去」を宣言すると、教職員が立て看板の方向に移動し、それを追う形で学生達は立て看板の方に移動した。学生達は、最初は、教職員が立て看板を撤去しようとすることに、少し離れて反対の声をあげるなどしていた。立て看板と植木がヒモで縛られていたため、教職員は立て看板の撤去をあきらめた。そこで、学生達の一部は立て看板と教職員の間に入って、教職員に抗議した。証人内山は、立て看板からも離れて、坂本旬に近づいて同人を弾劾した。全国から来た学生達は、周りでシュプレヒコールをあげていた。
学生達は、法大当局が言うような業務妨害を行っていなかった。ところが、学生達がキャンパスに入って5分も経たない間に、その周りは警視庁公安部の警察官だらけになっており、学生達29名は全員、その警察官に逮捕され、学外に連れ出され、警察車両に入れられた。学内に入って5分もたっていない間のできごとであった。
この3・14弾圧は、事前に公安警察と法大当局が結託して計画した弾圧であった。このことは、情報を流されていたフジテレビが撮影していたことや、110番通報から2分で200人の公安警察が来たことなどからも明らかである。
こうして29名の学生達は、法大生も含め、建造物侵入とされ、立て看板の撤去に抗議したことが威力業務妨害とされ逮捕された。そして12日間も自由を奪われ、「活動を止めろ」という転向強要を受けた。明らかな権力犯罪であった。
(2) 法大当局の学生弾圧はこの3・14弾圧を画期としている。清宮証人は一審の証言において「大学側がある意味で腹をくくった」と語っている。
すなわち、それまで「自治会の成立が確認できない」「学生会館で小火が起きたから」などの口実で開始していた学生自治破壊を、決定的にエスカレートさせ、目的意識的な言論弾圧ー逮捕のための逮捕、処分のための処分へと踏み切るのである。
法大当局は、「声をあげる学生をキャンパスから一掃すること」を狙い、その大目的のためならば、どんなダーティーな弾圧にも手を染めるという、決定的な一線を超えたのである。
しかしながら、3・14弾圧以降のたたかいは高揚し、118名の逮捕-33名の起訴にもかかわらず、大学キャンパスを新自由主義との戦場として塗り替え、新たな決起をつぎつぎとつくりだすことで、法大当局-国家権力のねらいを日々打ち破り続けている。
6 学友会解体-法大学生運動への壊滅攻撃
(1) 全法大生への攻撃としての学友会解体
2006年3・14弾圧以来、それまでとも次元を画する形で学生自治への攻撃が強められた。学生への不当処分攻撃、大学祭-自主法政祭に対する規模縮小の攻撃、特定のサークルや学生に対する施設を使わせない、等々の学生自治・自主活動に対する攻撃が、暴力支配のもとで強行されてきた。そしてそれらは、「一部過激派学生を大学から排除し、学内環境を守るため」だという口実で強行されてきた。
しかし、2007年に打ち出された学友会解体攻撃は、法大当局のこうした「理由」などは全くのウソで、すべての法大生にとっての学生の自治そのものを絶滅し、学生を個々バラバラに分断し、学生を徹底的に金儲けの手段・商品におとしめていくことにあったということを満天下に明らかにした。紛れもなく全学生にかけられた攻撃、「教育の民営化」攻撃に他ななかった。
そのことを恩田くんは法大生として、鋭く感じ取っていた。
「主に大学、市ヶ谷キャンパスで長年、学生運動を牽引してきたサークル団体、まあ自治団体ですけど、を非公認化して解散の追い込むための改変ですかね。改変といってますけど、中身みたらそうとしか思えないんですよ」「学生から発言権を奪おうとしたんじゃないですかね」(第4回恩田)
2007年7月、法大当局は、学友会費の代理徴収を中止することを突然打ち出した。
法大には、それぞれ数十単位のサークルが所属する文化連盟、第二文化連盟、学生団体連合といった学生団体があり、さらにそれらが集まって学友会という組織を形成していた。各学生団体は、全学生から集めた学友会費を自主的に分配してサークル活動を維持・発展させるとともに、サークルの公認権ももってきた。この財政分配権とサークルの公認権を奪い取り、大学の許可を受けたサークルだけに補助金を渡すというのである。これは法大の学生たちが長年守り抜いてきた学生自治に対する攻撃であり、学友会と学生団体の廃止そのものだった。(第4回恩田、第5回増井)
法大当局の目的は、当局にとって都合の悪い団体をいつでも「学外団体」に指定できる体制をつくることにあった。しかし、これまでの学友会や文化連盟などの学生団体がサークルの公認権を有している現状では、それができない。3・14弾圧のときに、全学連を「学外団体」だと決めつけ、警察に売り渡したことの不当性をどうしても消し去ることもできない。だから、法大当局はここに手をつけようとしてきたのだ。友部裁判の判決で東京地裁刑事18部が、いかに勝手に「学外団体」をデッチあげようとも、法政大学における学生団体の公認権は学生自治のもとで守り抜かれてきたし、全学連もそれに加盟する法大生も学生自治の担い手だったのだ。
法大当局は、2006年の3・14弾圧から、2007年の4・27弾圧に至るまで、「学外団体」から「教育・研究環境を守る」などといって立て看板やビラなどの表現手段を奪い、批判の声を上げる学生たちを警察に逮捕させ、排除してきた。しかし、本当の狙いは、すべての法大生の自主活動を一切認めず管理下に置き、最後的に潰してしまおうとすることであった。この事実が4・27弾圧の直後の学友会廃止策動が表面化したことによって、誰の目にも明らかとなった。
(2)法大当局による切り崩し
学友会廃止攻撃には「市ヶ谷の3本部団体、文化連盟、第二文化連盟、学生団体連合は一貫して反対していくというふうに全体会議の場で決められました」(第5回増井)。
そこで法大当局が行ったことは、学友会廃止反対を掲げる学生にするさまざまな切り崩しだった(新第11回中島p26~27)。
「やっぱり学生にとっては、学友会解体、こんなものは何の認めるべきものもないということを法大当局も突きつけられて、彼らがすがったのは、執行部の学生を買収するということ。具体的には、これは学生会館解体のときもそうでしたが、現金であったり、食べ物であったりというものを、飲ませ食わせをやって、さらに就職の世話までして、学生の中から大学の攻撃を貫徹する、そういう役割を担わせようとしたわけですね。」(新第11回中島p26)
「3本部団体の執行委員を飲食によって籠絡するというような手法が採用されていたということは見聞きしております」「藤村耕治副学生部長だったと思いますけれども(中略)本部団体の役員をすき焼きに招待して大盤振る舞いしたというような話は聞いております」(第5回増井)
一方で、学生の言論活動や権利を主張する学生やサークルには徹底的な攻撃が加えられた。恩田くんの所属するサークル「世論研究会」には、大学当局批判の機関紙を出したことで呼び出され「厳重注意処分」が加えられた(第4回恩田)。また、公認サークルであるにも関わらず立て看板を出すことなどの活動が一方的に禁止された。さらに社会科学研究会などの被処分者が所属するいくつかのサークルは、部室の使用すら認められず、一切の活動の自由を奪われた。結局、学友会廃止に込められた法大当局の狙いは、大学の言いなりにならないサークルは公認せず、金も渡さず、施設の利用もさせなくするということであり、同時に学生のなかに分断を持ち込み、学生自治と団結を破壊するための露骨な攻撃であった。
このほかにも、キャンパスで学友会解体反対の声を上げようとした学生は、親を呼び出され恫喝された(第4回恩田、第5回増井)。学生団体の執行部に立候補して闘おうとしたら、サークルの顧問教授から呼び出され「所属サークルに予算がつかなくなる」と脅された学生もいた。
「サークルに対しては、学生部長、まあセンター長とかいろいろ名前は変わってますけど、が個別に責任者を呼び出して、文化連盟に残ったら補助金出さないぞとかそういうこといったりとか」(第4回恩田)
「文化連盟に(中略)残っているサークルに文化連盟を脱退しろと、さもなければ予算を停止するぞというような発言があったと聞いています」(第5回増井)
「文化連盟の副委員長である菅谷圭祐くんを選出していた新聞学会は、予算を出さないと新聞が発行できないということで脱退させてくれと、菅谷も役職から引かせてくれという話がありました」(同上)
法大生の新たな闘いが始まっていることに対して、露骨な妨害が行われたのだ。「おかしいことをおかしいと言ったら弾圧される」(新第11回中島p24)といった会話が、学生間で交わされた。そのような状況のなかで、学友会廃止との闘いを巡っては、学生間で大激論が交わされた。
しかし、こうした不当な介入にも関わらず、多くの学生は怒りをもって応え、文化連盟の学生たちは08年度にむけて、学友会解体に協力した学生を全会一致で除名し(第5回増井)闘う法大生を執行部に選出、補助金打ち切りや部室使用禁止の攻撃をはねのけ闘う体制を整えていった。
(3)ジャパンプロテクション導入と恩田くんへの「停学2週間」処分
このことに追いつめられた法大当局が導入したのが、むき出しの暴力部隊であるジャパンプロテクションであることはすでに述べた。さらに法大当局が強行してきたのが恩田くんへの停学処分であった。
「僕の友人が当時文化連盟の執行部だったんですね。彼との話の中であつくなりすぎて、双方で殴り合うけんかをした」
(それぞれが呼び出され、事情聴取を受けたが)「友人だけから医療機関の診断書を取っていて、なおかつ公費でそれを負担していて、その事実は僕に言わなかった」
「けんか両成敗になると学生部長が言っておきながら、僕が停学2週間、友人が厳重注意」(以上、第4回恩田)
「さきに述べられていたような恩田くんと暫定執行部の委員長との双方のいざこざから大学当局が介入して、一方に診断書を取らせ一方には取らせないで、取らせた方の診断書は文学部教授会に提出して恩田くんの処分を画策するというような措置があって、恩田くんが(中略)何らかの処分を下されようとしていた」(第5回増井)
(4)文化連盟の決起
この恩田くん処分に文化連盟メンバーの怒りが爆発したのが5月20日のキャンパス集会であり、5月29日に呼びかけられていたキャンパス集会・デモであった。
「ジャージ部隊が殴りかかってきたので、全学連の友人たちに守ってもらいました」
「最終的には学生がすごい集まった」「白昼堂々と殴り合いをしているんで、なんかまずいと思ったのか、その日は引っ込みました」(第4回恩田)
「文連メンバーおよび全学連のメンバーでキャンパス内で集会したんですけれども、さきに述べたジャージ部隊と呼ばれる人たちが乱入してきまして、全学連活動家を殴ったり蹴ったり服を破いたり眼鏡を割ったりというようなキャンパス状況が生まれました」「法政大学当局の威圧性といいますか暴力性みたいなものを顕現させたという意味では成功したというふうに総括しています」(第5回増井)
「文連の学友は、このままではあらゆる金と暴力を使った団体つぶしに、消されてしまう、存在がなかったことにされることは絶対に我慢ならないというふうに考えて、キャンパス中央で全学生に訴えるという形で、集会を開く決断をします。ジャージ部隊は、当然にも例えば横断幕を破く、マイクを、メガホンを取り上げるというようなことをやって、そして、先ほど紹介したような、あらゆる暴力ですね、というのをやって圧殺しようとしたわけですけれども、文化連盟を先頭とする学生が、こうした暴力に屈しないという意思を示したということによって、この暴力支配というものは完全に破綻していると、破綻を来したというふうに言い切れると思います」(第5回中島)
以上はいずれも、5月20日のキャンパス集会の様子である。ジャージ部隊による襲撃や処分を覚悟しての、渾身の決起であった。それまでの、「大学に逆らったらつぶされる、弾圧される」という重苦しい空気が見事に打ち破られた。法大生の闘いは文連つぶし反対・処分撤回から洞爺湖サミット粉砕へ、政治的根底的決起へ解放されていく状況となった。学生側に学内状況の決定権が完全に移行した状態であり、5月29日に予定されていた大規模な学内集会に関する学生側の期待は(一般学生も含めて)最高潮に達した。
逆に、法大当局及び公安警察の打撃感は大きく彼らの焦燥ぶりは学生らから見てもてに取るように感じ取れた。恩田くんはその時の高揚した学内状況を次のように語っている。
(5月29日の集会・デモについて)「僕に対する処分撤回とあの当時は洞爺湖サミット粉砕、あとなんか学費値上げ反対とかいろいろ掲げて集会をやりました」(第4回恩田)
(5)5・28逮捕の政治的性格
以上のような状況の中で強行されたのが5月28日の5人不当逮捕であり、5月29日の集会・デモに対する34人不当逮捕(1人事後逮捕)であった。5月29日の集会に対してなんとか打撃を与え、参加主体である学生を何とかして身柄拘束してしまおうという狙いは明らかであった。
「事前弾圧予防拘禁だったというふうに私は考えています」(第5回増井)
「逮捕されて連行されて最初にいわれたのが、これで明日の集会は終わりだというふうに言われました。例えばマイクをね、トランジスタメガホン、拡声器を持っていて、それを押収するわけですね。あるいは、サミットが目前に迫る中で、5月28日は私と新井君の2人、プラスもう1人が、当時そのときは傷害容疑だったんですけれども、令状逮捕と、その場に一緒にいた2人は一緒にいただけで、一緒に歩いていただけなんですけれども、それでもう公務執行妨害という形で逮捕されたわけです。だから、そういう例えば集会の前日の昼休みが終わって帰ろうとしているところに後ろから襲いかかる、問答無用でいた人間を全員逮捕する、そういうやり方に、しかももう1か月半くらい前の出来事とされているものを挙げてというのは、ほとんど翌日の集会を開かせない、あるいはそうしたきわめて政治的な意図を持った弾圧だなというふうに、逮捕された瞬間に思いました」(第5回中島)
(6)小括
以上述べてきたように、新井くん、中島くんの逮捕は2人だけにかけられた攻撃ではなく、3万法大生の自治と団結に対する攻撃であった。5・28弾圧は、一貫して学生自治・団結を憎み、破壊しようとしてきた法大当局と警察権力によるものであったが、それは同時に、こうした学生自治・団結破壊を繰り返し打ち破ってきた学生の力に対する恐怖が生み出してものでもあった。いずれにしても、2人に対してこじつけられた「暴行」などというものが学生自治破壊という狙いを徹頭徹尾貫いたでっち上げであることは明らかである。
(あなた自身の体験からして、星とか正木というのに暴行を加えるような人たちに被告人2人、新井くんと中島くんは見えますか)
「見えませんね。むしろ逆ですよね」「新井さん、中島さんが僕の先輩であり友人であるので、人間性は知っていますし、被害者を名乗っている星を正木が普段何をやっているか僕全部見ていますから断言できます」(第4回恩田)
「星景警備員と正木敦行という、直接目にすればより一層分かりやすいとは思うんですけれども、彼ら2人の暴力性、齋藤君は正木敦行におなかを蹴られたりしていますけれども、新井君、中島君が彼らに暴力を振るったというのは全く事実無根であり、一審地裁判決で明らかなように、暴力を振るっていたのは法政大学の警備員であると、星景であり正木敦行であるというふうに私は認識しています」(第5回増井)
第3 法政大学当局の「新自由主義大学」への踏み込み
1 労働者の非正規化政策のもとでの転換
前述したように、法政大学では1996年に清成忠男総長が就任して以降、各学部学生自治会の非公認化や、学生の自主活動の拠点である学生会館の解体に向けた動きが開始されていくのであるが、これは、単に狭義の大学当局と学生の関係においてのみ理解されるべき問題ではない。まさに、当時の政府や財界の路線と一体で進められたものであった。
大学の「新自由主義代大学」への変質こそ、本件を含む一連の法政大学における弾圧を必然化させた最大の背景である。
1995に発表された日経連による報告「新時代の日本的経営」は、「清成路線」の根拠となるものとして、教育政策の根本的転換を迫るものといえる。
すなわち、労働者を(1)「長期蓄積能力活用型(管理職、総合職)」(2)「高度専門能力活用型(営業、研究開発等)」(3)「雇用柔軟型(一般職、技能部門等)」の3グループに分け、(1)だけを、終身雇用が約束された一握りのエリートとして育成し、現実の労働者の大多数を占めることになる後者2グループについては、有期雇用契約、昇給なし、退職金なしという、「9割の労働者の非正規化」をめざし、すさまじい低賃金化、不安定雇用化を迫るものであった。今日の労働者の使い捨て的状況は、この「日経連報告」に端を発する(控訴審における中島質問結果)。
こうした、資本の雇用政策の暴力転換は、大学における学生の扱いも一変させた。すなわち、企業にとって都合のよい、資本の意を体現した従順な労働者こそが求められる中で、それまで法大の学生が営々と築き上げてきた学生自治のあり方-学生自治会が存在し、自主的・主体的なサークル活動が、当局が定めた枠や「秩序」にとらわれることなく自由闊達に展開される大学のありかたは、もはや容認しがたいものとして、力ずくでたたきつぶす政策が開始されていくのである。
このころより、法政大学では「エンプロイヤビリティ(雇われる者の能力)を身につけよ」ということばが盛んに使われるようになり、「キャリア形成」があおられるようになる。労働組合的団結は当然にも資本の利益追求にとっては邪魔なものとされ、学生自治会は「不穏思想」の「芽」として、摘むべきとされる。
さらには、「労務管理」を専門とする教員がキャリアセンター(旧就職部)の長となり、講義やメディアでの発言を通して、ことごとく労働組合の意義を切り縮め、労働者を「みじめな存在」に描きあげようとした。法大当局が主催する講座では資本と闘わない「労働組合」を招いて、「先制的」に資本との融和があおられていった(控訴審における中島質問結果)。
学生自治活動に対する激しい弾圧と一体で、学生は「企業の営利に沿って働く能力を身につけよ」という教育が行われるようになるのである。学生会館学生連盟の非公認化や、各学部自治会の非公認化の動きなどは、労働者予備軍としての学生を、競争イデオロギーでがんじがらめにし、団結を破壊して分断を貫こうとする意図で行われてきたのである。
2 2000年代以降のさらなる反動化
2000年に、200億円を投じた新校舎「ボアソナードタワー」が竣工すると、法大の学生生活は、一変させられていく。
それまで、学生が自主活動として行ってきたビラ貼りを規制し、低廉といわれていた学費を大幅に値上げするということが行われた。現在の法大の学費は、文系学部で124万7000円(初年度納入金)である。これは、2000年までの97万円と比べて30万円近い値上げであるが、年収300万円ともいわれる世帯が増加している中で、その年間収入の半分近くを学費として納めなければならない現実である。
あるいは、それまで大学生協が担っていた学生食堂の運営を、「民間の活力」を導入するというかたちを取りながらも、実際は、大学の理事が経営する会社が随意契約で受注するということも始まる。
このころから、大学が設立した子会社が、大学業務の外注化を柱に、飲料自販機の設置から保険代理店業務、事務機器販売の代理店までを一手に引き受け、そのもとに多数の資本が群がるという構造がつくられていく。
子会社が受注した学内の清掃業務は、入札の旅に下請けの業者がかわることによって、継続して働いている労働者の雇用主が次々と代わり、賃金は次第に引き下げられるということが起きたのは、象徴的出来事である。
さらに、一方では大学職員に対する低賃金化、非正規雇用化ということも進められる。図書館は、カウンター業務を民間の書店に業務まるごと外注化するということをやり、あるいは学務部の学部窓口の職員を、雇用延長なし、短期契約の臨時職員というかたちで、日給6千円台で雇うということをやる。
このように、大学キャンパスという場を、ことごとく営利の対象として、金儲けの場としていくということが、様々な形で行われていったのである(控訴審における中島質問結果)。
本件デッチあげ弾圧の舞台である外濠校舎は、学生会館が解体された跡地に、2007年に建設されたものであるが、その実態は法大の「監獄大学」「新自由主義大学」の実態を象徴的に示している。
この外濠校舎は、当初は学生会館に替わる施設として描きあげられたのであるが、今では学生自主活動の象徴である「学生会館」だと考えるものは誰ひとりとしていない。
1階の中央を「学生センター(旧学生部)」がどっしりと押さえていることは、この建物の「主」が誰であるかを強烈に突きつけるものとなっている。そして、部室(BOX)ならぬ「会議室・倉庫」は、ガラス張りにされ、部屋の中から廊下はよく見えないが廊下から部屋の中は丸見えという構造になっている。入退室はカードキーで管理され、恩田証人が証言したように、法大当局が「気に入らない」とすれば、さじ加減一つで締め出すことができる(控訴審における恩田尋問結果)。
外濠校舎においては、とりわけ学生のサークルの部屋があるフロアに関しては、百数十台監視カメラがいっさい死角を残さないほどにはりめぐらされている。
公共施設や教育機関でこれほどに監視カメラが設置されることはまれである。法大においても、2000年のボアソナードタワーの完成後も、エレベーター内も含めて監視カメラは存在しないことになっていた。その後、図書館での「盗難事件」を口実にカメラが設置されると、当初の、あたかも慎重に扱うような姿勢-「管理規定に則った運用」や「設置場所には必ずその旨掲示する」等々-はあっというまに有名無実化されていったのであった。
こうした外濠校舎は、デッチあげの現場である正面入り口のすぐ脇の1階のテナントに、大手コンビニエンスストアが入り、同時に学内の食堂もそのグループ企業が請け負うようになった。またしても法大卒業生が役員を務める企業が利権を手にしたのである。これまで大学生協などに販売を停止させてきたタバコや、あるいは酒の販売も一手に引き受けさせ、膨大な利潤の源としている。
なお、2010年末になって法政大学では突如「学内全面禁酒」が打ち出された。しかしながら、何と学生の自主性を踏みにじるこの「規則」には例外があり、指定業者から数万円を購入した場合に限り飲酒は許可されるという。大学の腐敗、ここに極まれりである。
3 新自由主義大学の破綻
法大当局は、2005年に3年の任期で就任した平林総長のもとで、総長選挙の廃止を打ち出すなか、ひたすら金集め路線をひた走る。
象徴的なのは、付属校跡地を、地元住民の要望を無視して高層マンション建設のためにゼネコンへの売却した問題である。吉祥寺の法政一中高の移転に際し、「跡地を行政に譲って公園に」等の地元の要望を無視して大手ゼネコンに売却。地元住民は「これまで、登下校の生徒が多少うるさくとも受け入れてきたのに、恩を仇で返すのか」と激怒して反対運動を展開した。「法政金儲けの犠牲者は住民」「立つ鳥あとを濁す」等の横断幕が学校周辺に掲げられるという事態になった。なお、完成した高級分譲マンションは、買い手がつかず、どんどん分譲価格が下げられているという。
さらに、「学校債」の発行、学生の親などに「遺産の寄付」を求める等、見境のない金集め路線を進んできた。
そうしたなか、5・28弾圧が引き起こされた2008年秋にはリーマン・ショックが起き、世界は金融大恐慌の過程に突入するのであるが、この年度の決算で、法大当局が17億円の損失を出していたことが明らかにされる。学生の学費を原資に、マネーゲームにうつつをぬかしてきた法大当局への学生の怒りは高まりに高まっている。金儲けの手段へ変質し、学生への暴力支配と弾圧に手を染める新自由主義大学と一体で、裁判所が政治弾圧の加担者となることなど断じて許されないのである。
もはや、どんな弥縫策も通用しない。新自由主義路線をひた走ってきた法大当局の破綻は、「2006年3・14弾圧あるいはこの5・28弾圧を経て、文化連盟の学生が、金にも暴力にも負けずに声を上げた。そして、今、世代を超えて、代を超えて1年生を始めとして法大生が法政大学の現実あるいは社会の現実に対して声を上げている」(中島被告人質問)ことからも明らかである。
第Ⅱ章 改めて被告人らが完全に無実無罪であることについて
(中略。新井くん、中島くんが完全無罪であることを具体的に、詳細に立証しています。)
おわりに
改めて、弁護人らは新井くん、中島くんは無罪であると宣言する。
2007年4月に旧件で、2008年5月に新件で身柄拘束をされて以来、被告人らは違法不当な長期間の身柄拘束と闘うことを余儀なくされ、連綿と続く刑事裁判法廷への出廷や事前準備などの応訴負担も負わされてきた。このような不当な重圧に屈せず意気軒昂と闘い続ける被告人らに対し、裁判所が出来る唯一のことは、直ちに検察官控訴を棄却し、安東事件も含めて被告人らに完全無罪を言い渡すことである。
かかる行為によってのみ、被告人に対し「暴行」罪に問擬された事件としては異例の長期身柄拘束を行った裁判所の責任が明らかになることを付言して、控訴審の弁論の締めくくりとする。
以 上
新井くん、中島くんは無罪である。2人は法政大学の教職員や、警備員に対する暴行など全く行っていない。裁判官は、検察官の控訴を棄却するとともに、新井くんに対する有罪部分については原判決を破棄して直ちに全面無罪の判決を出さなければならない。
2人への逮捕・起訴が、法政大学における学生運動、自主活動、言論活動を圧殺するために行われた政治弾圧であることは明白である。そしてその主体は、教育を金儲けの道具に変えようとしている法政大学の理事会連中であり、歴史的危機に立つ資本家階級そのものである。法政大学での闘いは、08年リーマン・ショック以来、激化し、深化・発展する世界大恐慌の侵略戦争・世界戦争への転化が現実化しつつある時代の、戦時下の弾圧との闘いなのである。それは全世界の学生・労働者の注目するところとなり、時代の先端に立つ闘いとなった。
そして今や、その先頭に立っているのは昨年4月に法政大学に入学した1年生である。彼ら・彼女らは「監獄大学」・暴力支配の現実に、処分も恐れず真っ向から立ち向かう決断をした。この一点をもってしても、被告人2名の無実と正義が証明されたに等しい。裁判官は、未来ある若者の怒りの決起という刃をそののど元に突きつけられたことを自覚すべきである。
新井君も中島君も、暴行など一切していない。新井君は、安東への首絞めも、佐藤の引き倒しも、星への殴打もしていない。中島君は、正木への殴打などしていない。このような明白な政治的デッチあげは断じて許されない。法大当局のふるったあまたの暴力には目もくれず、学生へのデッチあげに裁判所が追随することなどあってはならない。
裁判所は、直ちに2人に全面無罪の判決を出さなければならない。
第Ⅰ章 法政大学の新自由主義路線の不正義性・暴力性とその破綻
本件について判断をするにあたっては、本件2007年4月27日及び2008年4月11日の出来事だけを見るのではなく、その前後にわたる被告人ら学生側と法政大学当局との間の様々なやり取りを含めて理解しなければならないことは当然である(弁護人らは、このような事情を暴行罪の構成要件該当性の段階で検討すべきと主張し、原判決は違法性阻却事由の段階で検討するとの立場を採用しているが、いずれにせよ、各種の事情の考慮が必要であるとする点で異なるところはない)。
そこで、まず本件の背景として、06年から行われてきた学生支配、言論弾圧の暴力的実体を述べる。そしてその背景として1990年代以来、法政大学当局が一貫して学生自治を敵視し、その破壊を追求してきたこと、それが06年以来、さらに激しく展開されてきたことを述べる。そしてさらに、この法政大学のあり方が学生を徹底的に商品化し、教育を金儲けの道具にする新自由主義大学化のなかで必然化してきたこと、そしてそれが現在、ボロボロに破産していることを述べる。こうした現実と日々、対峙しているのが2人の被告をはじめとする3万法大生であり、全国300万学生である。この現実に真正面から団結して立ち向かい、実力をもって変革していくことを「人間的行為」「歴史的事業」と呼ぶことはあっても、「犯罪行為」などと呼ぶことなど全く許されないことは明白である。
第1 学生支配の暴力性
1 2006年3月14日以来118人の逮捕・33人の起訴
118人の逮捕者、33人の起訴者、そして乱発される退学や停学の処分-検察も、裁判所もこれまでの法大裁判で一度も触れたことのないこの数字を見据えるべきである。一つの大学における学生運動に対する弾圧としては未曾有の規模である。法大当局自身が、弾圧というかはともかく、法政大学における学生運動をつぶそうとした結果生み出されたのがこの数字だということは認めているのである。
この数字こそ、法大当局の犯罪性そのものであり、学生に対する暴力支配がむき出しになったものである。本件を理解するにあたっては、かかる現実を無視することは許されない。
2 ガードマンや教職員による暴力支配
(1)法大当局の「警備」体制変遷の概要
2006年5月に3・14弾圧で不当逮捕された3人の文学部生に退学処分が下った直後から、興和警備保障という会社の警備員が配備された。そして同年9月からは興和警備に代わり東京警備保障の警備員が配置につく。さらに2008年9月からジャパンプロテクションの警備員が、当初は「嘱託職員」を名乗って「警備」体制に加わる。この「嘱託職員」が実はジャパンプロテクションの警備員であるということが、2008年に行われた法大裁判の中で明らかになるのである。
そしてこのジャパンプロテクションは2008年10月からいなくなり、東京警備保障の警備員と教職員の「体制当番」による「警備」、さらには学生が、その言動から「やくざ部隊」と呼んでいる、所属も名前も名乗らずにビデオカメラによる撮影・監視を行っている自称「職員」がキャンパスを徘徊するという「警備」体制が取られている。(第4回新井)
以下、今少し敷衍して述べていく。
(2)2006年の警備体制
2006年5月から警備員による「警備」体制が取られるが、当初は学生に対して実力行使する事はなかった。教職員の後ろについているぐらいであった。(第4回新井)
それが明確に転換するのが同年9月、東京警備保障が配備されてからである。処分を受け、それに抗議する学生に対する、実力を用いたキャンパスからの排除が連日、行われた。
これら警備員の抗議は明白に警備業法15条「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たっては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」に違反する。警備業法においては警備員に対する研修が義務づけられ、対象者に対する実力行使は行ってはならないと繰り返し教え込まれる建前になっている。東京警備保障警備員による暴力行為は、学生側が暴露し抗議した結果、表だっては行われなくなった。
2005年に法大に入学し2006年以来の法大キャンパスの様子を学生としてつぶさに見ていた恩田くんは次のように証言している。
(東京警備保障の警備員について)「一言で言うと、粗暴でした」(第4回恩田)
「2008年の夏ごろ、僕の後輩に当たる法政の学生の齋藤郁真くんに対して、東京警備保障の正木敦行という警備員が腹部にけりを入れて排除しました」(同)
齋藤くんへの暴行については増井くんも証言している。
「星景警備員と正木敦行という、直接目にすればより一層分かりやすいとは思うんですけれども、彼ら2人の暴力性、齋藤君は正木敦行におなかを蹴られたりしていますけれども」(第5回増井)
「星景という警備副隊長がいるんですけれども、星景を含む何名かが中島さんを抱え上げて学外へ排除するところを見ています」「その引きずり出したのは2006年の後期あたりかな」(第4回恩田)
「星景さん、僕は手をかまれたんですよ」「2009年ですね、集会のときですね」「僕が集会をしていて、突然、彼がかみついてきましたね」(同)
「正木という人は常に暴力を振るうんで、この裁判の一審で証人として出廷した内海佑一さんという方がいるんですけど、彼を証人出廷する日に正木から投げ飛ばされたか何かして、手にけがをしたんですよ」(同)
また、中島くんは、自らが受けた暴行について以下のように克明に証言している。
「東京警備保障は、とにかくそれまでの警備会社が拒否してきた暴力的な排除というのを担う会社でしたから、そのなかでも取り分けこの星警備員というのは体格がいいんですね。私の体験に即して言いますと、例えばこの門前の正門の前の路上で、結構敵意をむき出しにしてきますので。私などは、例えば路上にたたきつけられたことがあります。危ないと言いながら、車が通っているんですけれども、この肩をつかんで突き飛ばして、危ないと言いながら突き飛ばして、そして、もう一回つかんで、そのまま今度は地面にたたきつけると。 当時、私は、それで肘を擦りむいて、当時の写真とか残っていたりするんですけれども、そういう、それは一例ですけれども、そうした暴力的な傾向というのはあったというふうに思っています。」(第5回中島)
新井くんも警備員に暴行を受けた一人である。
「まず今回被害者として出ている正木敦行という警備員ともみ合ったことは、回数は数知れません。そして、その中で、眼鏡が一つ中島くんについても焦点になっていますが、僕自身も眼鏡を払い落とされるということがあった…正木という警備員は人の眼鏡を弱点として狙う、非常に狡猾悪質な人物だという風に僕自身は思っています。」(第4回新井)
以上、時期はいろいろ異なっているが、配備されてから5年間、その暴力性は一貫しているのである。さらにこれらの実力行使は、きわめて組織的におこなわれていたことについて、中島くんは証言している。
「入構禁止者に阻止線を突破されると減点されるんだというふうに聞いたことはあります。それぞれの門の担当者が決まっていて、なんか1回入られたら何点、それがたぶん給料に影響するんだと思うんですけれどもという形で。そういう形ですから、たとえ入ろうが入るまいが、いるということをもってすごく憎しみを向けられるわけですよね。そういうことはありました」(第5回中島)
こうした、にわかには信じられないような暴力支配が実体的には東京警備によって、そしてもちろん、法大当局の指示のもとでおこなわれてきたのである。
また、これら警備員が行ったのは暴力行使だけではなかった。教職員によるものと一体で、「入構チェック」や単位、卒業、就職を使った脅しなど、様々な形での学生への嫌がらせも数多く行われた。
「入構チェックというものがあるんですけど、特定の学生、大学当局とまあ警察ですよね、がこいつだと思ってマークした学生の入構時間と退構時間をチェックするというものがあるんですよ。許し難い人権侵害なんですけど」(第4回恩田)
「東京警備保障の大久保…という警備員がいたんですけれども、…妨害を打ち破って…討論を始めた学生に対して、…このままだと退学処分になるよとか、就職や卒業ができなくなるよというようなことを白昼堂々と脅すようなことをやって、法大生、学生が真実を知っておかしいという声を上げるのを執拗に陰湿な形で妨害」(第4回新井)
こうした「警備」体制が早くも2006年度末には取られており、法政 大学構内を警備員が我が物顔に徘徊して学生らに対する威圧と嫌がらせに従事していたのである。
(3)2007年4月27日のエスカレーション
これがさらに大転換するのが2007年4月27日であった。この日は不当処分の撤回を訴えるキャンパス集会とデモが呼びかけられていたが、2006年9月以来、半年間ほど出てこなかった教職員が大挙して「体制当番」を組みキャンパスに登場した。内海くん、友部くん、内山くんという3人の被処分者を、手足を抱え、体ごと持ち上げてキャンパスから排除するという違法な自力救済へと踏み切った。そして、この実力排除に当然の抗議を行った新井被告人と友部くんを逮捕し、起訴するに至った。これがすなわち本件(旧件)である。
ところでこの日の法大キャンパスの異様な状況について、07年に入学し、この前日に新井くんと初めて会ったという増井くんが以下のように証言している。
「4月27日の朝にキャンパスに入っていった。前日会った新井さんが朝、門の中、キャンパスの中でビラをまいていたのを受け取ってちょっと言葉を交わしたんですけれども。帰るときも、キャンパスに、昼ごろ帰ったんですかね、新井さんと大学職員がちょっと口論になっているというかそういう場面があったんですけれども、新井さんが何をしたのかといえば、ビラをまいて政治的主張をしていただけだと。それによってたかって大学職員が群がるなんていう光景が、表現の自由が憲法の条項で規定されている日本国において正常なのかどうかと、僕は正常じゃないというように思っています」(第5回増井)
(4)2007年から始まる学友会廃止攻防と「警備」体制
そしてこの4月27日の弾圧直後に、後述する学友会廃止攻撃が法大当局から打ち出され、サークル団体を始めとしたすべての法大生との大攻防となる。本件(旧件)4・27弾圧は、法大当局による学生自治破壊のエスカレーションの開始という意味をもっていたのである。
教職員による「体制当番」や東京警備保障による「警備」体制はこの頃(正確には2007年10~11月頃)から約3倍に増強される。毎週1回学内で夕方から行われていた文化連盟の会議に対して警備員たちが張り付くようになった。警備員の数は倍増され、これまでの日勤に加えて、夜勤のシフトが導入された。本件で登場した警備員の正木や富山は、まさにこの時期に警備会社に就職し、法政大学に送り込まれた人物に他ならない。学生の自治活動に対する敵対と妨害のために新たに雇い入れられのである。彼らの任務は、被処分者や「学外者」の入構を阻止するという建前をとったが、実際には、文化連盟の討議そのものにたいする重大な圧力をかけることだった。学生が学友会廃止反対の声をより強く上げていくこと、あるいは政治的に立ち上がっていくことを抑えつける、暴力的な抑圧体制としてより強化された。(第4回新井)
(5)2008年度から導入されたジャパンプロテクション
学友会廃止攻撃はしかし、サークル団体をはじめとする学生の怒りを呼び起こし、07年度を通して攻防が激化していく。市ヶ谷キャンパスにおける学生団体は、強引な学友会廃止決定にも関わらず、自主的に団体存続を決定し、文化連盟では新執行部を選出するに至る。
この学生の怒りに追い詰められた法大当局は新たな警備体制を取るに至る。それがジャパンプロテクションである。ジャパンプロテクションの警備員は2008年4月から配置されたが、当初は「嘱託職員」と名乗っていた。しかしそれはおよそ「職員」とは言い難い、それまでの暴力とはまたさらに一線を画す、むき出しの暴力集団であった。
「やってることだけみたら犯罪者」
「大学に抗議する人間、抗議集会をやったりとか、抗議デモをやったりとか、ビラをまいたりする人間に対して、あからさまな暴力の行為ですよね。殴る、蹴る、寝技をかける…ヘッドロックをかける、羽交い締めにして膝蹴りを食らわせるとか、馬乗りになって首を絞めるとか、そういういわゆる犯罪行為を日常業務にしていました」
「ビデオカメラをもって僕の動きを監視していましたね。で、いろいろと殺すぞとかいってきました」
「ジャージ部隊というガードマンたちが、文化連盟だとかほかの団体の会議体の場に現れて、参加者に対して威圧するんです」
(以上、第4回恩田)
「4月の1日か2日に初めて見て、いや、えらくガタイのいいプロの格闘家みたいな人がいるなと思って。本当に見たことなくて、職員ですかと聞いたんですけれども、職員だ、昨日から、昨日からというので、昨日からって何だろうというふうに思っていたんですけれども、柔道とか、耳なんか柔道なんかやってるような感じ、それが」「首なんかもワイシャツのボタンが締まらないみたいな、そのぐらいの格闘家なんですけれども」
「一番ひどいのは内海君という、いますけれども、彼は、ジャージ部隊と呼ばれる人々に眼鏡をたたき落とされて、馬乗りになって首を絞められて、そして、Tシャツの襟からそでからびりびりに肌が露出するぐらいに破かれて、首にはこの赤い筋が、首を絞められた後が筋として残っているというは実際に目撃しました」(第5回中島)
(6)小括
ここまで述べてきたように、2006年から始まる法大教職員、東京警備保障警備員、ジャパンプロテクション警備員による暴力支配、そしてこれと一体となった警察権力による118人逮捕、33人起訴という大弾圧は、これまでの大学の歴史を画するものである。これに抗議し続けてきた新井くんや中島くんを逮捕し、起訴し、無罪判決には控訴するという暴挙はとうてい許されるものではない。裁判所は、本件で問われているのは「暴行」があったかどうかということなどではなく、「大学とはどうあるべきなのか」、「この5年間の法大のあり方とは何なのか」という問題なのだということを見すえなければならない。
第2 学生自治活動に対して憎しみを募らせてきた法大当局
1990年第の後半から、法大当局の変質と、学生支配の暴力性は顕著にエスカレートした。学生の言論・表現の自由を奪うことに始まり、次第にすべての学生から学生自治や、サークル活動など自主活動の自由と団結を奪い管理下におくことが、その直接の目的であった。
1 90年代前半
法政大学は、「民主法政」「自由と進歩」を校風とし、戦後、一貫して、学生の自主活動が活発に行われてきた。
1990年ころの法大の学生団体の状況は、市ヶ谷キャンパスには法・文・経営・二教の各学部自治会(各学部生全員が加盟)、一文連、二文連、学団連などのサークル団体や応援団や体育会で構成される学友会(法大生全員加盟)、各学部に学術団体、30本部団体(自治会、サークル団体、学術団体、応援団、体育会、寮など)で構成される学生会館学生連盟が存在していた。まさに、大学の自治の担い手として学生の団結が力を発揮していた。
学生運動の状況をみると、1990年には、法大当局の土地売却における不正問題や天皇の即位の礼に反対するバリケードストライキが闘われた。91年度には次年度からの学費値上げに反対して何度もストライキが行われ、最大の教室である511教室での総長団交も行われた。後期試験はバリストで粉砕されていた。
キャンパスには、自治会、全学連、中核派、学生団体、各サークルの立て看板が華を競い、これら各団体の教室でのビラまき、廊下などのノリ貼りステッカーなども加わって、法政大学を訪れた人は誰でも「民主法政」、「自由と進歩」という校風を体感することができた。
学生部に対する学生の抗議行動は当たり前で、個別のテーマごとに、学生部は学生の声を大学当局に届ける窓口、学生部長は学生の声を学部長会議に届ける役割ということを学生部・学生部長も学生の前で何度も確認してきた。学生部は、教室貸し出しなど学生に対する様々な便宜供与を担当していた
このような学内の状況・雰囲気は、基本的には2004年の学生会館の解体まで続いていたし、法政大学当局が暴力的に押さえ込もうとして本件をはじめとした大量弾圧を仕掛けてきた現在にあっても、その状況と雰囲気の奪還を求めて学生のエネルギーが噴出しているところである。
2 90年代後半
上記のような学生諸団体の活動に対して、90年代半ばから、大学当局の規制が強まってきた。
最初の変化は、1994年におきた学生間の対立で学生会館学生連盟の総会が成立しなかったことを口実に、94年度から学生連盟予算が執行されなくなったことであった。法大当局は、その後連盟総会が再開されたあとも、学生会館学生連盟を承認することを拒否し続けた。
1996年に清成総長が就任すると学生自治会に対する非公認化攻撃が決定的に強められた。
2003年ごろまでには、法・文・経営・第二教養部の全自治会は全て非公認化され、自治会費の代理徴収は停止された。
3 2000年台
2000年に入り、3月、「市ヶ谷キャンパスにおける掲示物に関するルール」が発表され、同年度にボアソナードタワーが開館、2001年度からは学費値上げのスライド制が導入された。
この2000年の「掲示物に関するルール」とは、ビラを貼る場所を掲示板に限定し、立て看板は学生部長の許可を得ることが必要とするものであった。「掲示物に関するルール」は掲示板以外に貼ったビラは全部剥がすというものであったし、立て看板を出すのに学生部長の許可が必要であるとし、規制の強化そのものだった。だが、この時点では、立て看板の大きさや設置場所、設置期間などの細かい規定はなかった。このルールに対しては、学生諸団体は反対し、このルール自体を認めず、ビラのノリ貼りを行い、立て看板を出してきた。特に、立て看板の規制については、その後も有名無実化してきたし、法政大学当局も立て看板の掲出について従来どおりの取り扱いとしており、2000年ルールを文面どおり適用しないという学内慣行が成立していた。
また、学生会館は、200部屋の個室や中小会議室、ホールを有するサークル、自治会などの学生の自主活動の拠点であった。この学生会館に対しては、2003年8月13日、小火を口実に法大当局により夜間使用禁止とされた。2004年4月20日、やはり学生会館での小火を口実に、法大当局は学生会館を閉鎖し、7月に学生会館の解体と新施設建設を打ち出した。この小火の原因は漏電であり、夜間使用禁止のために、夜間、学生がいなかったため消防署が来て消し止めた。学生がいれば、学生の手で消し止めたはずであった。しかも、漏電対策としては、ちょうど翌21日にコンセントカバーを配布する予定だったところ、その前日のできごとであり、謀略の可能性すらあった。しかし、このような経過を経て、学生会館は2004年に解体された。学生会館を解体して新施設に置き換えることはあらかじめ決められており、その口実に小火が利用されたことは明白だった。
この前年、その後総長に就任することになる平林千牧施設担当常務理事は、雑誌「法政」のインタビュー記事において、ボアソナードタワーと学生会館を対比してそれぞれ「知性」と「非知性」になぞらえる発言をしている。学生会館は法大当局にとって、悪罵の対象であり、その解体は、「どんな手段を使っても」実現したかったものといえる。
学生会館解体は学生の自主活動に対して大きな影響を与えた。学生会館解体は、サークル活動を始めとした学生の自主活動弾圧の象徴的事態であり、これによりサークル活動が解体されたサークルも多く、学生の団結も解体された。
4 2006年、立て看・ビラ規制
2006年2月27日、「学生団体の立て看板・ビラに関する運用について」が法大当局により発表されるに至った。この規定について法大当局は、2000年「掲示物ルール」の「運用を定めたもの」と言っているが、これはまさに立て看板とビラに関する規制の強化であった。しかも、法大当局は、2月のグールプリーダーズキャンプ(略称「GLC」、学内の学生自主団体のリーダー達の学内問題を話し合うための会議合宿)が終わって学生がキャンパスに最もいない期間にこれを打ち出し、3月14日から運用を開始すると一方的に通告するといった学生無視のやり方を取った。
この規定は、立て看板については、学生部長の許可を必要としたうえに、設置場所は学生部が決め、設置期間は2週間、大きさはベニア1枚、学内学生団体のみ(個人もダメ)といった内容であった。ビラについては、教室での配布や置きビラを禁止し、学内学生団体のみとされていた。2000年「ルール」はあくまで「掲示物に関するルール」であって、ビラまきという行為は規制の対象外と法大当局ですら認めていたが、2006年ルールは「ビラまき」を規制対象とするなど規制対象を新設しており、「2000年ルールの運用」という範囲を完全に逸脱した内容であった。
学生側は、このような言論規制を認めるわけにはいかず、3月2日には学生有志で、8日は哲学研究会として、13日と14日は全国学生と共に学生部に対する抗議行動を行った。法大当局は、これらの抗議行動を「業務妨害」と決めつけ、被告らに対する退学処分の理由とした。しかし、そもそも学生との合意もなく言論規制を一方的に行う法大当局に一切の責任があるのであり、不当な表現規制に対して学生が抗議するのは当然であった。
なお、過去、法大では、全国学生の集会やデモはしばしば行われている。2004年の学生会館解体に際しても、12月4日に全国学生総決起集会を行い、学生部への抗議デモを行っている。それを理由に処分等が行われたことは一切なかった。
5 3.14法大弾圧
(1) 法大当局が上記立て看・ビラ規制の運用を開始するとした3月14日の前日である13日、これに反対する集会と学生部へのデモが行われた。
翌14日も反対集会・デモが行われた。学生達は、キャンパス中央で集会を行い、学生部に抗議に行き、デモに出発した。デモからキャンパスに帰ってくると、正門は開いたままで、キャンパス中央に20~30人の教職員が阻止線を張っていた。学生達は異常事態だとは思ったが、そのまま正門からキャンパスに入った。本件528事件の第1審で新井被告人と併合審理されていた友部くんなどは学生証を法政大学職員に見せて、その承認のもとで正門から法政大学構内に入っている。正門入口で副学生部長の坂本旬が「許可なき者の入構を禁止する」と言っていたが、具体的な阻止行動はなく、キャンパス中央で阻止線を張る教職員と学生が対峙する構造となったが、当然ながら学生側は口頭での抗議など表現の自由の範囲内の正当な行為しか行っていない。
その後、坂本旬が「立て看板の撤去」を宣言すると、教職員が立て看板の方向に移動し、それを追う形で学生達は立て看板の方に移動した。学生達は、最初は、教職員が立て看板を撤去しようとすることに、少し離れて反対の声をあげるなどしていた。立て看板と植木がヒモで縛られていたため、教職員は立て看板の撤去をあきらめた。そこで、学生達の一部は立て看板と教職員の間に入って、教職員に抗議した。証人内山は、立て看板からも離れて、坂本旬に近づいて同人を弾劾した。全国から来た学生達は、周りでシュプレヒコールをあげていた。
学生達は、法大当局が言うような業務妨害を行っていなかった。ところが、学生達がキャンパスに入って5分も経たない間に、その周りは警視庁公安部の警察官だらけになっており、学生達29名は全員、その警察官に逮捕され、学外に連れ出され、警察車両に入れられた。学内に入って5分もたっていない間のできごとであった。
この3・14弾圧は、事前に公安警察と法大当局が結託して計画した弾圧であった。このことは、情報を流されていたフジテレビが撮影していたことや、110番通報から2分で200人の公安警察が来たことなどからも明らかである。
こうして29名の学生達は、法大生も含め、建造物侵入とされ、立て看板の撤去に抗議したことが威力業務妨害とされ逮捕された。そして12日間も自由を奪われ、「活動を止めろ」という転向強要を受けた。明らかな権力犯罪であった。
(2) 法大当局の学生弾圧はこの3・14弾圧を画期としている。清宮証人は一審の証言において「大学側がある意味で腹をくくった」と語っている。
すなわち、それまで「自治会の成立が確認できない」「学生会館で小火が起きたから」などの口実で開始していた学生自治破壊を、決定的にエスカレートさせ、目的意識的な言論弾圧ー逮捕のための逮捕、処分のための処分へと踏み切るのである。
法大当局は、「声をあげる学生をキャンパスから一掃すること」を狙い、その大目的のためならば、どんなダーティーな弾圧にも手を染めるという、決定的な一線を超えたのである。
しかしながら、3・14弾圧以降のたたかいは高揚し、118名の逮捕-33名の起訴にもかかわらず、大学キャンパスを新自由主義との戦場として塗り替え、新たな決起をつぎつぎとつくりだすことで、法大当局-国家権力のねらいを日々打ち破り続けている。
6 学友会解体-法大学生運動への壊滅攻撃
(1) 全法大生への攻撃としての学友会解体
2006年3・14弾圧以来、それまでとも次元を画する形で学生自治への攻撃が強められた。学生への不当処分攻撃、大学祭-自主法政祭に対する規模縮小の攻撃、特定のサークルや学生に対する施設を使わせない、等々の学生自治・自主活動に対する攻撃が、暴力支配のもとで強行されてきた。そしてそれらは、「一部過激派学生を大学から排除し、学内環境を守るため」だという口実で強行されてきた。
しかし、2007年に打ち出された学友会解体攻撃は、法大当局のこうした「理由」などは全くのウソで、すべての法大生にとっての学生の自治そのものを絶滅し、学生を個々バラバラに分断し、学生を徹底的に金儲けの手段・商品におとしめていくことにあったということを満天下に明らかにした。紛れもなく全学生にかけられた攻撃、「教育の民営化」攻撃に他ななかった。
そのことを恩田くんは法大生として、鋭く感じ取っていた。
「主に大学、市ヶ谷キャンパスで長年、学生運動を牽引してきたサークル団体、まあ自治団体ですけど、を非公認化して解散の追い込むための改変ですかね。改変といってますけど、中身みたらそうとしか思えないんですよ」「学生から発言権を奪おうとしたんじゃないですかね」(第4回恩田)
2007年7月、法大当局は、学友会費の代理徴収を中止することを突然打ち出した。
法大には、それぞれ数十単位のサークルが所属する文化連盟、第二文化連盟、学生団体連合といった学生団体があり、さらにそれらが集まって学友会という組織を形成していた。各学生団体は、全学生から集めた学友会費を自主的に分配してサークル活動を維持・発展させるとともに、サークルの公認権ももってきた。この財政分配権とサークルの公認権を奪い取り、大学の許可を受けたサークルだけに補助金を渡すというのである。これは法大の学生たちが長年守り抜いてきた学生自治に対する攻撃であり、学友会と学生団体の廃止そのものだった。(第4回恩田、第5回増井)
法大当局の目的は、当局にとって都合の悪い団体をいつでも「学外団体」に指定できる体制をつくることにあった。しかし、これまでの学友会や文化連盟などの学生団体がサークルの公認権を有している現状では、それができない。3・14弾圧のときに、全学連を「学外団体」だと決めつけ、警察に売り渡したことの不当性をどうしても消し去ることもできない。だから、法大当局はここに手をつけようとしてきたのだ。友部裁判の判決で東京地裁刑事18部が、いかに勝手に「学外団体」をデッチあげようとも、法政大学における学生団体の公認権は学生自治のもとで守り抜かれてきたし、全学連もそれに加盟する法大生も学生自治の担い手だったのだ。
法大当局は、2006年の3・14弾圧から、2007年の4・27弾圧に至るまで、「学外団体」から「教育・研究環境を守る」などといって立て看板やビラなどの表現手段を奪い、批判の声を上げる学生たちを警察に逮捕させ、排除してきた。しかし、本当の狙いは、すべての法大生の自主活動を一切認めず管理下に置き、最後的に潰してしまおうとすることであった。この事実が4・27弾圧の直後の学友会廃止策動が表面化したことによって、誰の目にも明らかとなった。
(2)法大当局による切り崩し
学友会廃止攻撃には「市ヶ谷の3本部団体、文化連盟、第二文化連盟、学生団体連合は一貫して反対していくというふうに全体会議の場で決められました」(第5回増井)。
そこで法大当局が行ったことは、学友会廃止反対を掲げる学生にするさまざまな切り崩しだった(新第11回中島p26~27)。
「やっぱり学生にとっては、学友会解体、こんなものは何の認めるべきものもないということを法大当局も突きつけられて、彼らがすがったのは、執行部の学生を買収するということ。具体的には、これは学生会館解体のときもそうでしたが、現金であったり、食べ物であったりというものを、飲ませ食わせをやって、さらに就職の世話までして、学生の中から大学の攻撃を貫徹する、そういう役割を担わせようとしたわけですね。」(新第11回中島p26)
「3本部団体の執行委員を飲食によって籠絡するというような手法が採用されていたということは見聞きしております」「藤村耕治副学生部長だったと思いますけれども(中略)本部団体の役員をすき焼きに招待して大盤振る舞いしたというような話は聞いております」(第5回増井)
一方で、学生の言論活動や権利を主張する学生やサークルには徹底的な攻撃が加えられた。恩田くんの所属するサークル「世論研究会」には、大学当局批判の機関紙を出したことで呼び出され「厳重注意処分」が加えられた(第4回恩田)。また、公認サークルであるにも関わらず立て看板を出すことなどの活動が一方的に禁止された。さらに社会科学研究会などの被処分者が所属するいくつかのサークルは、部室の使用すら認められず、一切の活動の自由を奪われた。結局、学友会廃止に込められた法大当局の狙いは、大学の言いなりにならないサークルは公認せず、金も渡さず、施設の利用もさせなくするということであり、同時に学生のなかに分断を持ち込み、学生自治と団結を破壊するための露骨な攻撃であった。
このほかにも、キャンパスで学友会解体反対の声を上げようとした学生は、親を呼び出され恫喝された(第4回恩田、第5回増井)。学生団体の執行部に立候補して闘おうとしたら、サークルの顧問教授から呼び出され「所属サークルに予算がつかなくなる」と脅された学生もいた。
「サークルに対しては、学生部長、まあセンター長とかいろいろ名前は変わってますけど、が個別に責任者を呼び出して、文化連盟に残ったら補助金出さないぞとかそういうこといったりとか」(第4回恩田)
「文化連盟に(中略)残っているサークルに文化連盟を脱退しろと、さもなければ予算を停止するぞというような発言があったと聞いています」(第5回増井)
「文化連盟の副委員長である菅谷圭祐くんを選出していた新聞学会は、予算を出さないと新聞が発行できないということで脱退させてくれと、菅谷も役職から引かせてくれという話がありました」(同上)
法大生の新たな闘いが始まっていることに対して、露骨な妨害が行われたのだ。「おかしいことをおかしいと言ったら弾圧される」(新第11回中島p24)といった会話が、学生間で交わされた。そのような状況のなかで、学友会廃止との闘いを巡っては、学生間で大激論が交わされた。
しかし、こうした不当な介入にも関わらず、多くの学生は怒りをもって応え、文化連盟の学生たちは08年度にむけて、学友会解体に協力した学生を全会一致で除名し(第5回増井)闘う法大生を執行部に選出、補助金打ち切りや部室使用禁止の攻撃をはねのけ闘う体制を整えていった。
(3)ジャパンプロテクション導入と恩田くんへの「停学2週間」処分
このことに追いつめられた法大当局が導入したのが、むき出しの暴力部隊であるジャパンプロテクションであることはすでに述べた。さらに法大当局が強行してきたのが恩田くんへの停学処分であった。
「僕の友人が当時文化連盟の執行部だったんですね。彼との話の中であつくなりすぎて、双方で殴り合うけんかをした」
(それぞれが呼び出され、事情聴取を受けたが)「友人だけから医療機関の診断書を取っていて、なおかつ公費でそれを負担していて、その事実は僕に言わなかった」
「けんか両成敗になると学生部長が言っておきながら、僕が停学2週間、友人が厳重注意」(以上、第4回恩田)
「さきに述べられていたような恩田くんと暫定執行部の委員長との双方のいざこざから大学当局が介入して、一方に診断書を取らせ一方には取らせないで、取らせた方の診断書は文学部教授会に提出して恩田くんの処分を画策するというような措置があって、恩田くんが(中略)何らかの処分を下されようとしていた」(第5回増井)
(4)文化連盟の決起
この恩田くん処分に文化連盟メンバーの怒りが爆発したのが5月20日のキャンパス集会であり、5月29日に呼びかけられていたキャンパス集会・デモであった。
「ジャージ部隊が殴りかかってきたので、全学連の友人たちに守ってもらいました」
「最終的には学生がすごい集まった」「白昼堂々と殴り合いをしているんで、なんかまずいと思ったのか、その日は引っ込みました」(第4回恩田)
「文連メンバーおよび全学連のメンバーでキャンパス内で集会したんですけれども、さきに述べたジャージ部隊と呼ばれる人たちが乱入してきまして、全学連活動家を殴ったり蹴ったり服を破いたり眼鏡を割ったりというようなキャンパス状況が生まれました」「法政大学当局の威圧性といいますか暴力性みたいなものを顕現させたという意味では成功したというふうに総括しています」(第5回増井)
「文連の学友は、このままではあらゆる金と暴力を使った団体つぶしに、消されてしまう、存在がなかったことにされることは絶対に我慢ならないというふうに考えて、キャンパス中央で全学生に訴えるという形で、集会を開く決断をします。ジャージ部隊は、当然にも例えば横断幕を破く、マイクを、メガホンを取り上げるというようなことをやって、そして、先ほど紹介したような、あらゆる暴力ですね、というのをやって圧殺しようとしたわけですけれども、文化連盟を先頭とする学生が、こうした暴力に屈しないという意思を示したということによって、この暴力支配というものは完全に破綻していると、破綻を来したというふうに言い切れると思います」(第5回中島)
以上はいずれも、5月20日のキャンパス集会の様子である。ジャージ部隊による襲撃や処分を覚悟しての、渾身の決起であった。それまでの、「大学に逆らったらつぶされる、弾圧される」という重苦しい空気が見事に打ち破られた。法大生の闘いは文連つぶし反対・処分撤回から洞爺湖サミット粉砕へ、政治的根底的決起へ解放されていく状況となった。学生側に学内状況の決定権が完全に移行した状態であり、5月29日に予定されていた大規模な学内集会に関する学生側の期待は(一般学生も含めて)最高潮に達した。
逆に、法大当局及び公安警察の打撃感は大きく彼らの焦燥ぶりは学生らから見てもてに取るように感じ取れた。恩田くんはその時の高揚した学内状況を次のように語っている。
(5月29日の集会・デモについて)「僕に対する処分撤回とあの当時は洞爺湖サミット粉砕、あとなんか学費値上げ反対とかいろいろ掲げて集会をやりました」(第4回恩田)
(5)5・28逮捕の政治的性格
以上のような状況の中で強行されたのが5月28日の5人不当逮捕であり、5月29日の集会・デモに対する34人不当逮捕(1人事後逮捕)であった。5月29日の集会に対してなんとか打撃を与え、参加主体である学生を何とかして身柄拘束してしまおうという狙いは明らかであった。
「事前弾圧予防拘禁だったというふうに私は考えています」(第5回増井)
「逮捕されて連行されて最初にいわれたのが、これで明日の集会は終わりだというふうに言われました。例えばマイクをね、トランジスタメガホン、拡声器を持っていて、それを押収するわけですね。あるいは、サミットが目前に迫る中で、5月28日は私と新井君の2人、プラスもう1人が、当時そのときは傷害容疑だったんですけれども、令状逮捕と、その場に一緒にいた2人は一緒にいただけで、一緒に歩いていただけなんですけれども、それでもう公務執行妨害という形で逮捕されたわけです。だから、そういう例えば集会の前日の昼休みが終わって帰ろうとしているところに後ろから襲いかかる、問答無用でいた人間を全員逮捕する、そういうやり方に、しかももう1か月半くらい前の出来事とされているものを挙げてというのは、ほとんど翌日の集会を開かせない、あるいはそうしたきわめて政治的な意図を持った弾圧だなというふうに、逮捕された瞬間に思いました」(第5回中島)
(6)小括
以上述べてきたように、新井くん、中島くんの逮捕は2人だけにかけられた攻撃ではなく、3万法大生の自治と団結に対する攻撃であった。5・28弾圧は、一貫して学生自治・団結を憎み、破壊しようとしてきた法大当局と警察権力によるものであったが、それは同時に、こうした学生自治・団結破壊を繰り返し打ち破ってきた学生の力に対する恐怖が生み出してものでもあった。いずれにしても、2人に対してこじつけられた「暴行」などというものが学生自治破壊という狙いを徹頭徹尾貫いたでっち上げであることは明らかである。
(あなた自身の体験からして、星とか正木というのに暴行を加えるような人たちに被告人2人、新井くんと中島くんは見えますか)
「見えませんね。むしろ逆ですよね」「新井さん、中島さんが僕の先輩であり友人であるので、人間性は知っていますし、被害者を名乗っている星を正木が普段何をやっているか僕全部見ていますから断言できます」(第4回恩田)
「星景警備員と正木敦行という、直接目にすればより一層分かりやすいとは思うんですけれども、彼ら2人の暴力性、齋藤君は正木敦行におなかを蹴られたりしていますけれども、新井君、中島君が彼らに暴力を振るったというのは全く事実無根であり、一審地裁判決で明らかなように、暴力を振るっていたのは法政大学の警備員であると、星景であり正木敦行であるというふうに私は認識しています」(第5回増井)
第3 法政大学当局の「新自由主義大学」への踏み込み
1 労働者の非正規化政策のもとでの転換
前述したように、法政大学では1996年に清成忠男総長が就任して以降、各学部学生自治会の非公認化や、学生の自主活動の拠点である学生会館の解体に向けた動きが開始されていくのであるが、これは、単に狭義の大学当局と学生の関係においてのみ理解されるべき問題ではない。まさに、当時の政府や財界の路線と一体で進められたものであった。
大学の「新自由主義代大学」への変質こそ、本件を含む一連の法政大学における弾圧を必然化させた最大の背景である。
1995に発表された日経連による報告「新時代の日本的経営」は、「清成路線」の根拠となるものとして、教育政策の根本的転換を迫るものといえる。
すなわち、労働者を(1)「長期蓄積能力活用型(管理職、総合職)」(2)「高度専門能力活用型(営業、研究開発等)」(3)「雇用柔軟型(一般職、技能部門等)」の3グループに分け、(1)だけを、終身雇用が約束された一握りのエリートとして育成し、現実の労働者の大多数を占めることになる後者2グループについては、有期雇用契約、昇給なし、退職金なしという、「9割の労働者の非正規化」をめざし、すさまじい低賃金化、不安定雇用化を迫るものであった。今日の労働者の使い捨て的状況は、この「日経連報告」に端を発する(控訴審における中島質問結果)。
こうした、資本の雇用政策の暴力転換は、大学における学生の扱いも一変させた。すなわち、企業にとって都合のよい、資本の意を体現した従順な労働者こそが求められる中で、それまで法大の学生が営々と築き上げてきた学生自治のあり方-学生自治会が存在し、自主的・主体的なサークル活動が、当局が定めた枠や「秩序」にとらわれることなく自由闊達に展開される大学のありかたは、もはや容認しがたいものとして、力ずくでたたきつぶす政策が開始されていくのである。
このころより、法政大学では「エンプロイヤビリティ(雇われる者の能力)を身につけよ」ということばが盛んに使われるようになり、「キャリア形成」があおられるようになる。労働組合的団結は当然にも資本の利益追求にとっては邪魔なものとされ、学生自治会は「不穏思想」の「芽」として、摘むべきとされる。
さらには、「労務管理」を専門とする教員がキャリアセンター(旧就職部)の長となり、講義やメディアでの発言を通して、ことごとく労働組合の意義を切り縮め、労働者を「みじめな存在」に描きあげようとした。法大当局が主催する講座では資本と闘わない「労働組合」を招いて、「先制的」に資本との融和があおられていった(控訴審における中島質問結果)。
学生自治活動に対する激しい弾圧と一体で、学生は「企業の営利に沿って働く能力を身につけよ」という教育が行われるようになるのである。学生会館学生連盟の非公認化や、各学部自治会の非公認化の動きなどは、労働者予備軍としての学生を、競争イデオロギーでがんじがらめにし、団結を破壊して分断を貫こうとする意図で行われてきたのである。
2 2000年代以降のさらなる反動化
2000年に、200億円を投じた新校舎「ボアソナードタワー」が竣工すると、法大の学生生活は、一変させられていく。
それまで、学生が自主活動として行ってきたビラ貼りを規制し、低廉といわれていた学費を大幅に値上げするということが行われた。現在の法大の学費は、文系学部で124万7000円(初年度納入金)である。これは、2000年までの97万円と比べて30万円近い値上げであるが、年収300万円ともいわれる世帯が増加している中で、その年間収入の半分近くを学費として納めなければならない現実である。
あるいは、それまで大学生協が担っていた学生食堂の運営を、「民間の活力」を導入するというかたちを取りながらも、実際は、大学の理事が経営する会社が随意契約で受注するということも始まる。
このころから、大学が設立した子会社が、大学業務の外注化を柱に、飲料自販機の設置から保険代理店業務、事務機器販売の代理店までを一手に引き受け、そのもとに多数の資本が群がるという構造がつくられていく。
子会社が受注した学内の清掃業務は、入札の旅に下請けの業者がかわることによって、継続して働いている労働者の雇用主が次々と代わり、賃金は次第に引き下げられるということが起きたのは、象徴的出来事である。
さらに、一方では大学職員に対する低賃金化、非正規雇用化ということも進められる。図書館は、カウンター業務を民間の書店に業務まるごと外注化するということをやり、あるいは学務部の学部窓口の職員を、雇用延長なし、短期契約の臨時職員というかたちで、日給6千円台で雇うということをやる。
このように、大学キャンパスという場を、ことごとく営利の対象として、金儲けの場としていくということが、様々な形で行われていったのである(控訴審における中島質問結果)。
本件デッチあげ弾圧の舞台である外濠校舎は、学生会館が解体された跡地に、2007年に建設されたものであるが、その実態は法大の「監獄大学」「新自由主義大学」の実態を象徴的に示している。
この外濠校舎は、当初は学生会館に替わる施設として描きあげられたのであるが、今では学生自主活動の象徴である「学生会館」だと考えるものは誰ひとりとしていない。
1階の中央を「学生センター(旧学生部)」がどっしりと押さえていることは、この建物の「主」が誰であるかを強烈に突きつけるものとなっている。そして、部室(BOX)ならぬ「会議室・倉庫」は、ガラス張りにされ、部屋の中から廊下はよく見えないが廊下から部屋の中は丸見えという構造になっている。入退室はカードキーで管理され、恩田証人が証言したように、法大当局が「気に入らない」とすれば、さじ加減一つで締め出すことができる(控訴審における恩田尋問結果)。
外濠校舎においては、とりわけ学生のサークルの部屋があるフロアに関しては、百数十台監視カメラがいっさい死角を残さないほどにはりめぐらされている。
公共施設や教育機関でこれほどに監視カメラが設置されることはまれである。法大においても、2000年のボアソナードタワーの完成後も、エレベーター内も含めて監視カメラは存在しないことになっていた。その後、図書館での「盗難事件」を口実にカメラが設置されると、当初の、あたかも慎重に扱うような姿勢-「管理規定に則った運用」や「設置場所には必ずその旨掲示する」等々-はあっというまに有名無実化されていったのであった。
こうした外濠校舎は、デッチあげの現場である正面入り口のすぐ脇の1階のテナントに、大手コンビニエンスストアが入り、同時に学内の食堂もそのグループ企業が請け負うようになった。またしても法大卒業生が役員を務める企業が利権を手にしたのである。これまで大学生協などに販売を停止させてきたタバコや、あるいは酒の販売も一手に引き受けさせ、膨大な利潤の源としている。
なお、2010年末になって法政大学では突如「学内全面禁酒」が打ち出された。しかしながら、何と学生の自主性を踏みにじるこの「規則」には例外があり、指定業者から数万円を購入した場合に限り飲酒は許可されるという。大学の腐敗、ここに極まれりである。
3 新自由主義大学の破綻
法大当局は、2005年に3年の任期で就任した平林総長のもとで、総長選挙の廃止を打ち出すなか、ひたすら金集め路線をひた走る。
象徴的なのは、付属校跡地を、地元住民の要望を無視して高層マンション建設のためにゼネコンへの売却した問題である。吉祥寺の法政一中高の移転に際し、「跡地を行政に譲って公園に」等の地元の要望を無視して大手ゼネコンに売却。地元住民は「これまで、登下校の生徒が多少うるさくとも受け入れてきたのに、恩を仇で返すのか」と激怒して反対運動を展開した。「法政金儲けの犠牲者は住民」「立つ鳥あとを濁す」等の横断幕が学校周辺に掲げられるという事態になった。なお、完成した高級分譲マンションは、買い手がつかず、どんどん分譲価格が下げられているという。
さらに、「学校債」の発行、学生の親などに「遺産の寄付」を求める等、見境のない金集め路線を進んできた。
そうしたなか、5・28弾圧が引き起こされた2008年秋にはリーマン・ショックが起き、世界は金融大恐慌の過程に突入するのであるが、この年度の決算で、法大当局が17億円の損失を出していたことが明らかにされる。学生の学費を原資に、マネーゲームにうつつをぬかしてきた法大当局への学生の怒りは高まりに高まっている。金儲けの手段へ変質し、学生への暴力支配と弾圧に手を染める新自由主義大学と一体で、裁判所が政治弾圧の加担者となることなど断じて許されないのである。
もはや、どんな弥縫策も通用しない。新自由主義路線をひた走ってきた法大当局の破綻は、「2006年3・14弾圧あるいはこの5・28弾圧を経て、文化連盟の学生が、金にも暴力にも負けずに声を上げた。そして、今、世代を超えて、代を超えて1年生を始めとして法大生が法政大学の現実あるいは社会の現実に対して声を上げている」(中島被告人質問)ことからも明らかである。
第Ⅱ章 改めて被告人らが完全に無実無罪であることについて
(中略。新井くん、中島くんが完全無罪であることを具体的に、詳細に立証しています。)
おわりに
改めて、弁護人らは新井くん、中島くんは無罪であると宣言する。
2007年4月に旧件で、2008年5月に新件で身柄拘束をされて以来、被告人らは違法不当な長期間の身柄拘束と闘うことを余儀なくされ、連綿と続く刑事裁判法廷への出廷や事前準備などの応訴負担も負わされてきた。このような不当な重圧に屈せず意気軒昂と闘い続ける被告人らに対し、裁判所が出来る唯一のことは、直ちに検察官控訴を棄却し、安東事件も含めて被告人らに完全無罪を言い渡すことである。
かかる行為によってのみ、被告人に対し「暴行」罪に問擬された事件としては異例の長期身柄拘束を行った裁判所の責任が明らかになることを付言して、控訴審の弁論の締めくくりとする。
以 上
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